私のルーツ・・・

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 昨年12月、全山形退職教職員連絡協議会田川支部の機関紙「雪原行(ほどわらこぐ)」に、私が紹介されました。
掲載にあたり、事務局長の星野正紘さんにインタビューを受けました。
先日、ブログに掲載してはということで今回掲載させていただきます。



〈星野〉お子さんのお名前は。

〈剛(つよし)〉女の子で「ひなた」です。二歳五ヶ月です。縁側の日向のようにぽかぽかで、暖かくみんなに慕われる子になって欲しいと。毎日すこしずつ成長し、家に帰るのが楽しみです。

〈星野〉剛さんは、小学校時代はどんな子でした。

〈剛(つよし)〉入学は朝陽三小で、間もなく一小に転校しました。自分の意見を言えない子で、通信簿にも「引っ込みじあん」と書いてありました。五年生の時に若い男の先生が担任になり、野球スポ少に入り活発になっていきました。5番バッターのファーストでした。先日、その恩師にご挨拶に行き、励まされました。

〈星野〉中学でも野球をやったのですか。

〈剛(つよし)〉全くの野球 少年で、三中のキャプテンをしていました。
社会科を真田行雄先生に担任され歴史が好きになりました。「大化の改新は六四五年だ。棺桶に入るまで忘れるな!」などと大変楽しかった。

〈星野〉高校は羽黒でしたよのう。

〈剛(つよし)〉 親はびっくりしたようでしたが、甲子園にあこがれていたので羽黒高校に進みました。しかし、一年の秋に肩をこわし、野球を断念せざるをえませんでした。人生で最初の挫折でした。

〈星野〉確か、高校生の頃から民青同盟員だったようだけど。どなたの影響でしたか。

〈剛(つよし)〉姉ちゃんが民青でしたから。高校に入ると間もなく入ったのですが、姉が毎日遅く帰ってくるのを見ていたので最初は嫌っていました。しかし、人生の目標を失ってからは、なんとなく行き始めました。決定的だったのは、二年生の夏に、原水禁五十周年大会に参加したことです。同世代の高校生が沢山参加していて、活発に、堂々と発言していました。大きな刺激を受けました。

〈星野〉 お父さんは秋田ご出身のようですが、最近おじいさんは治安維持法で逮捕もされた方とうかがっています。何をされていた方ですか。

〈剛(つよし)〉 長谷川清といって、秋田で読売新聞の記者をしておったと聞いております。

〈星野〉おじいさんに会ったことはあるのですか。

〈剛(つよし)〉盆になると毎年秋田に行きましたから。          

〈星野〉どんな方でしたか。

〈剛(つよし)〉杖をついて歩いており、気難しい頑固そうなおじいさんなので、子どもの私には近づき難いおじいさんでした。

〈星野〉お母さんは鶴岡の名門水野家のご出身なわけですが、私は高校時代、
生物クラブで一年先輩の重昭おじさんに教えを受けました。非常に芯の強い方で、独特のオーラを持っておりましたが、剛さんにもそれと同じオーラのようなものを若い頃から感じていた私は、将来を楽しみに期待していました。

〈剛(つよし)〉先日、笹山さんとご挨拶に行きました。おじさんは大いにがんばれと激励してくれました。

〈星野〉一番訴えたいことは何でしょう。

〈剛(つよし)〉おおもとから今の国をつくり直し、青年たちが希望を持って未来へ向かっていける国にすることです。

〈星野〉最後に、政治家としてずばり、国会解散は何時頃に照準を合わせていますか。

〈剛(つよし)〉来春三~四月でしょうか。何時来てもよい準備はしています。

〔ホープ 長谷川つよしさんのルーツ 〕
戦前の無産運動に参加し、
戦後の秋田県党再建に貢献した
父方の祖父 長 谷 川 清
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一九〇九年(明四二)七月五日
     ~一九八八年(昭六三)一月二十五日
 国鉄土崎工場および秋田機関区の技工長をつとめた父仁兵衛の次男として生まれた。
 土崎商業学校(三期生)を一九二五年(大一四)卒業後、国鉄土崎工場に就職したが二八年(昭三)
春病気のため退職した。土崎商業在学中、近江谷友治の教えを受けたが、土商の同期生越前谷兼春と親交を結び、白水実(のち四・一六事件被告)らをも知り、無産者新聞、戦旗を読む。
 四・一六事件後その救援活動に参加し、さらに日本赤色救援会に加盟して救援闘争を組織する一方、「無産青年」新聞の支局網の確立をはかると共に、一九三〇年(昭五)春頃より佐藤亀寿ら師範学校生徒の社会科学研究会の指導に当たった。
また、日本教育労働者組合秋田支部の結成(昭和六年一月)には助言者として参加するなどして活動していたが、三一年(昭六)二月、治安維持法違反容疑で検挙され懲役二年六ヶ月の刑を受けた。
(なおこの事件は上告審まであらそわれ上告棄却となる判例になったが、その判決理由で〔治安維持法違反被告事件ノ被告人トシテ公判ニ付セラレタル者ノ救援活動ヲ為スハ即チ同党ヲ支持シ其ノ強化ヲ図ルモノニシテ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ニ外ナラズ〕として、以後、治安維持法の結社の目的遂行のためにする行為として文化人のシンパをはじめ全協その他大衆団体の構成員まで検挙する根拠となった。)
 なお、秋田刑務所服役中、山代吉宗、畠山金四郎、齋藤孝輔や朝鮮の同志らと共に「獄内赤旗」を発行し獄外とも連絡を保つと共に食事の改善などの獄中闘争なども組織した。
三四年(昭九)出獄後、木材通信(牛丸兵衛)、木材新聞(棚橋貞雄)などの仕事を手伝うほか、  
市内の小新聞社など転々し、三八年(昭一三)七月報知新聞記者、その後、読売と合併し読売記者となり、六四年(昭三九)定年退職後、日赤秋田赤十字社に勤務した。
この間、三八年(昭一三)秋田思想保護観察所(開所は一二年二月)の観察に付された者を中心に組織された”同朋会“の機関紙の編集発行を担当させられた。
その名簿は戦後共産党秋田地方委員会の再建に活用することができ、終戦と同時に高橋実、船越吉治郎らと党再建活動に着手し、四六年(昭二一)能代読売通信部へ転任後、同地で党組織の確立、秋木の首切反対闘争、能代大火の復興闘争等に参加。
 五〇年(昭二五)秋田支局に勤務がえとなり、以後レッドパージの嵐の中で党を離脱した。
(『秋田県社会運動の百年』その人と年表
小沢三千雄編 一九七八年発行より)
長谷川清さんは後年、妻キヌさんと共に、日本共産党に再入党されています。亡くなった葬儀では、中川利三郎さんが弔辞を上げています。

母方水野家 始祖、藤右衛門から二家に分かれたが、両家ともおおよそ代々荘内藩の家老職を務めている。千五百石と二千石であった。特記される先祖たち。
 養育米制度を行った「元朗」(一六九二~一七四八年)
 家老に昇進した寛保当時、多くの農民の生活は苦しく、そのため生まれたばかりの子供を間引く風習が広がっていたことを憂えた元朗は、養育米制度を創設し、子どもが多くて困窮な者には、乳児が五歳になるまで、年に米三俵ずつを扶持し、義倉を建てて、間引きの防止に努めた。(「鶴岡市史」上巻)
 元朗は庄内藩屈指の名家老と言われた。
藩主の歳費を半額にした「重邦」(一七一五~一七七五年)
 元朗の子で、家老になると藩財政立て直しのため、藩主酒井忠(ただ)徳(あり)に対し、歳費を半額に減じて七年間これを継続するよう建言し採納となる。
(新編「庄内人名事典」)


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コメント

東京空襲で亡くなった棚橋氏は、「偽装転向者」だったとも言われています。長谷川清氏を採用したのも、そのためでしょう。また、棚橋、長谷川両氏が戦中コンタクトしておられた「中国の仲間」には、興味深い人物が大勢います。
特高を煙にまいたとも言えるでしょうね。
御祖父の御遺志を継いで、御健闘・御活躍されることを心からお祈り申しあげます。

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プロフィール

長谷川つよし

Author:長谷川つよし
1978年4月6日 鶴岡市家中新町生まれ
鶴岡市日枝在住
朝暘第一小学校、鶴岡第三中学校、羽黒高校卒
市内の民間会社を経て2005年9月より日本共産党鶴岡地区委員会勤務

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